『和算』 講師:佐藤 健一先生

日時:11月6日(水)19時~21時
会場:六本木/国際文化会館
講師:佐藤健一 先生

和算(わさん)とは日本で独自に発達した数学だ。
特に江戸後期には日本中で数学ブームが起き、最終的に関孝和が行列式や高等数学を大成させた。しかし、明治時代に西欧数学が輸入され、西洋・東洋の差別化がなされるようになる。「鶴亀算」など一部の算術を残しつつも、和算は日本の教育現場から姿を消していく。
明治時代以降、使われなくなってしまった和算だが、首都圏の私立学校を中心に、和算を授業に取り入れたり、小説や漫画など和算を扱った書籍の発刊など、現代、その素晴らしい文化や内容が各方面で見直されているという。(数学が好きな女性…いわゆる数学女子を中心に密かにブームにもなっているのだとか。)

はたして日本にあった数学とはどのようなものだったのか。
日本数学史学会会長、和算研究所理事長の佐藤健一先生にご案内いただいた。

和算【わさん】
明治以前の日本人が研究した数学。研究者により、その初めを
(1)上古(2)1627年(寛永4)刊の吉田光由著『塵劫記(じんごうき)』(3)74年刊の関孝和著『発微算法(はつびさんぽう)』とする3通りがある。
奈良・平安時代、養老令(718)によれば、官吏養成のための学校である大学寮を設置し、現在の中学生くらいの少年がここで勉強した。この課程の中に「数学」があり、定員は算博士2人、算生30人であった。

和算の歴史
奈良時代  中国から数学と計算道具の算木(写真)が伝わる。
算博士が算生に数学を教える。
平安時代  万葉集に「九九」の記述あり。
室町時代  中国の明からそろばんや数学の本が貿易を介して伝わる。
1600年  日本最古の数学書『算用記』ができる。
割り算や利息の計算などが行われる。
17世紀  寺子屋(庶民の学校)でそろばんの計算を教えるようになる。
1622年  毛利重能の『割算書』ができる。
1627年  吉田光由の「塵劫記」ができる。そろばんの計算を記述した本書は大ベストセラーとなり、
類似本・海賊本が数多く出版されることとなる。
1641年  吉田光由の『新篇塵劫記』ができる。
巻末に答えのない難問を載せ、他人に解かせる「遺題継承」が数学者の間で流行する。
1674年  関孝和の『発微算法』ができる。
当時のヨーロッパよりも早く行列式を発明し、和算を大成させる。
1683年  日本最古の数学絵馬算額が栃木県佐野市に奉納される。
18世紀  建部賢弘の和算全書『大成算経』が完成。
全国的に和算・数学がブームとなり、出版や遊算の旅に出るもの多数。
1872年  明治政府は小学校の授業に西洋数学を採用。以降和算は廃れていく。

算木とは
算木(さんぎ)は和算で用いられた計算用具だ。
縦または横に木の棒を置くことで数を表し、計算を行ったのだそう。
紅い木(プラスの数)と黒い木(マイナスの数)を使う。現在の赤字・黒字とは意味が反転するので
算盤での計算に少し違和感を感じずにはいられない塾生一同。
この算木と算盤、そろばんさえあれば二次方程式、三次方程式…と求めていかれるというからスゴい。

算額とは
八坂神社、金王八幡宮など、神社や仏閣に奉納した数学の絵馬である。(写真上部)
江戸時代中期,寛文年間の頃から始まった風習といわれ,現在全国に約820面の算額が現存する。
算額は,数学の問題が解けたことを神仏に感謝し、益々勉学に励むことを祈願して奉納されたといわれる。
(一方でその問題が解けたことを誇示していたとも。)
人の集まる神社仏閣を発表の場とし、難問や問題だけを書いて解答を付けないで奉納するものも現われ、
その問題を見て解答を算額にしてまた奉納する といったことが行われた。
算額奉納の習慣は世界に例を見ず、日本独自の文化であり、明治になり洋算の導入を容易にしたのも
算額を奉納する風習が一端にはあったらしい。

和算が見直されてきている理由は、その楽しいストーリー性にもありそうだ。
例えば若い少女を好きになってしまった男性の禁断の恋を題材にしているものや、
家督相続で遺産をどう分配するかといった生々しいものもある。
無味乾燥な問題ではなく、問題ひとつひとつに血肉にする無意識的感性、愛や楽しさがある。
江戸っ子ならではの粋さというか、
常々感情表現をすることをポジティブにとらえていた当時の日本人の実用的感性が光っているといえよう。

実際、佐藤健一先生『天地明察』などの歴史的監修もされており、
我が国の膨大な数学の歴史を様々な方面から編纂されてもいる。
これからの和算の日本再伝播に目をみはりたい。
先生、どうもありがとうございました。