日時:2008年10月28日(火) P.M.7:00開塾
場所:銀座 久のや 座敷
男の子というのは、武具を眼前にすると心が騒ぐ遺伝子を持っているのですな。
五十四回目の和塾、お題は「甲冑」。塾生は皆、少々興奮気味で会場を後にする刺激的なお稽古でした。
ご指導いただいたのは、三浦公法(ひろみち)先生。日本に数名しかいない現役の甲冑師。日本甲冑武具研究保存会の専務理事でもあります。
三浦公法先生と紺糸威の甲冑
三浦先生は国宝クラスの甲冑のレプリカを受注制作されることもあるとか。素材から製法まで、ほとんどすべてをオリジナル同様に再現するこの復元甲冑、制作期間は3〜4年、販売価格は3000〜4000万円になります。ご希望の方は世話人までご連絡ください。
で、その甲冑です。「甲」というのはもちろん亀の甲羅の意。亀が堅い甲羅をつけて身を守っているように鎧兜で武装するということです。ここで注意。甲冑の「冑」の字の脚は「月」ではありません。二本の横棒は縦線と接続せず離れている。この冑の字は屋根瓦の意味があった。家を守る瓦のように頭を守る兜があるということです。ちなみに、英語で甲冑は「armor」。これはアルマジロ(armadillo)から来ているとのこと。東洋で防御といえば亀ですが、西洋ではアルマジロなんですな。
日本の甲冑は1000年を越える歴史を持っている。4〜5世紀の頃から兵士は既に甲冑を身につけていた。出土する埴輪にもこうした兵士の例がたくさんあります。この頃の甲冑には「短甲」と「桂甲」の二種があった。短甲は南方系のもので文字通り丈が短い。桂甲は北方系で長めの鎧が特色です。
平安時代になると戦いの様相が変化し、騎馬での戦いなども現れ、これに対応した「大鎧(おおよろい)」が生まれます。大鎧には「栴檀板(せんだんのいた)」「鳩尾板(きゅうびのいた)」と呼ばれる部材が胸板の左右にある。この二枚の板は胴を肩に留めている結びが切られるのを防ぐものですが、左右の構造が異なります。弓での戦いを意識したからであります。弓手(左側)にある鳩尾板は一枚の鉄板でできており、弓を持った腕を伸ばすことによってできる防御の隙間を埋めている。一方、引手(右側)の方にある栴檀板は腕の動きを妨げないように複数の鉄板を糸でつないだ「威し(後述)」の形状になっているのです。馬上で弓を射る時もこれなら安心、しかも動きやすい。尚、馬上での弓は「日置流(へきりゅう)」で射る。流鏑馬などでは、矢を顔近くに引き締めているのを眼にしますが、甲冑を身につけている状態では、兜が邪魔になってあんな射方はできない。矢を腰の位置で放つのが日置流なのです。この射方で内兜のわずかな隙間などを狙ったというのだから、古の兵士は怖いものです。
日本の甲冑はその後、「胴丸」「腹巻」「当世具足」へと変遷してゆきます。これらの変遷は、基本的に当時の戦闘様式に応じたもの。防具である甲冑は、当たり前のことですが、戦い方に対応してその構造・形状を変化させていったのです。特に、鉄砲=種子島の登場は大きかった。当世具足と呼ばれる甲冑が鉄砲伝来以降のものになります。
次は甲冑の構造。といっても何千もの部品で組み上げられている甲冑の仕組み、そう簡単に説明理解できるものではありません。素材は、鉄・皮・木・布・糸・・、と多岐にわたる。それぞれを、たたいて伸ばしたり、乾燥させて漆を塗ったり、細く切って編み込んだり・・。鉄工、漆芸、彫金、韋染め、組紐、蒔絵・・、と多くの工芸技術が駆使されている。ともかく手が込んでいる。一人で作業すれば一領仕上げるのに3〜4年の時間が必要というのもうなずける話しです。
そんな日本の甲冑の構造でもっとも特徴的なのが「威し(おどし)」といわれるもの。板と板を糸で編んでいく構造であります。板に使うのは鉄であったり皮であったりするのですが、いずれも表面を漆で固め、糸を通すための穴を穿ち、絹糸を使ってこれを編み込むようにつないでいきます。この時の糸の色によって、日本の鎧は、「赤糸威大鎧(あかいとおどしおおよろい)」とか「白糸威〜」とか「色色威〜」などと呼ばれるのです。使われる色味は、白・赤・紅・紺・紫・萌葱・縹・浅葱・黒・・などなど。単色だけでなく複数の色糸を組み合わせて編み込んだり、下部に向かって徐々に濃色に威したり、端部だけに別色を使った褄取り(つまどり)の手法を使ったりと威し方も多種多彩。卯花威、藤威、紅梅威、山吹威、桜威・・、とその名も美しい。
もうひとつ。日本の甲冑に特徴的なパーツが「立物(たてもの)」です。兜に装着するものですが、立てる場所に応じて「前立(まえたて)」「脇立(わきたて)」「頭立(ずだて)」「後立(うしろだて)」などと呼びます。平安・鎌倉期、立物はまず「鍬形(くわがた)」で始まります。文字通り鍬のカタチをした一双の角状のもの。日本の兜と言えば、この鍬形の前立がもっとも一般的な印象。新聞紙でつくった兜も二本の角が出ていましたね。安土桃山期以降この立物は多種多様にその造形のバリエーションを増やしてゆきます。家紋や毘の文字などを表した物から三日月・半月・八日月、日輪、鹿角、扇、百足、水牛、波頭、兎耳、木菟(みみずく)、卍、矢羽、柊、羊歯(しだ)、稲穂、軍配・・・。伊達政宗の巨大な弦月や真田幸村の六文銭の前立など皆さんもご存じでしょう。立物は最初、識別や威嚇といった役割もあったのでしょうが、やがては装飾としての存在が重要となります。もっとも、甲冑は一種の晴れ着でもあったのですから、存在感を高める工夫は必然だったのかもしれません。
蜻蛉の前立
今回三浦先生にお持ちいただいた紺糸威の甲冑には蜻蛉の前立があります。蜻蛉は「勝ち虫」とも呼ばれる武運の良いデザイン。胴体は桐、羽は羊の皮でつくり金箔を貼ったものです。尚、こうした立物はたいてい木や皮でつくられています。金属では頭が重くて話しにならないです故。
このようにとても複雑な構造を持つ日本の甲冑は、結果見事な「美しさ」を持っています。これは、単に無骨なだけの西洋甲冑にはない特色。戦いのための道具に美しさを求める。もしかすると日本人だけが持つ特別な感性なのかもしれません。
三浦先生による甲冑のお話しの後は、いよいよ試着の時間。お持ちいただいた江戸時代中頃の甲冑に合わせて、塾生の中でももっとも武将に近い?風貌の福島さんにモデルとなっていただきました。
まず、臑当(すねあて)を着ける。細く切られた鉄板が縦に並んでいます。
次に、佩盾(はいだて)。膝の周辺を守ります。ひざよろいとも言います。威しですね。
いよいよ胴部を着込む。草摺(くさずり)と呼ばれる大腿部を庇護するパーツは胴部と一体化しています。この鎧は、横矧胴(よこはぎどう)です。右の脇腹の位置で胴を切り離すことができるようになっている。コの字になった胴の右から身体を滑り込ませて着用することになります。
腕を守る当世袖(とうせいそで)も今回は胴部に着けたまま。まず左腕をこの中に差し入れます。籠手の部分には指を通す留め具がある。腕の部分は鉄材で編み込まれていてる。
そのまま身体を胴の中に入れ、右手を袖に通し、肩のところで前後の胴部をつなぐのですが、結構たいへんな作業になった。兵士はこれを自分一人でこなしたようです。
兜を着けて完成。
立派な武将のできあがりです。
甲冑は手にするとかなりの重さがあります。全体で20〜30キロある。けれど身に着けてみるとさほど重さを感じない、というのが福島さんの感想。その上、驚くほど動きやすい。もっとも印象的だったのが「これなら戦えそうな気持ちになる」という感想。甲冑を身に着けることによる精神的効果は、その物理的防御力以上に役立ったのかもしれません。少々気弱な男でも着ればサムライに変える力が鎧と冑にはある。そんな気がしました。白兵戦での勝敗は気力が最重要だろうから、刀も矢も恐れるに足らずの気概こそ大きな武器になる。甲冑は防御の道具だけれど、攻撃のための重要な役目もあるのではないか。これ、今回の新発見でした。
これにて、妙な高揚感に包まれた今回のお稽古も修了。男の子のDNAを刺激された塾生は、やや肩を怒らせて久のやの座敷を後にしました