儒教と道教と日本文化と【大久保喬樹先生の日本文化論】特別レポート

今月の和塾は、東京女子大学教授、大久保喬樹先生による「武士道(新渡戸稲造)」と「茶の本(岡倉天心)」の講義でした。これらの名著は、いずれも、明治開国後、かの小国、日本が日清戦争に勝利したことに驚いた西洋の知識人の好奇心に応えるために(英語で)書かれたものだそうです。

一方は儒教をもとに、封建社会の組織の中で効率的に機能するよう教育された集合体の一員としての日本人について記述され。一方は道教をもとに、日常の最もありふれたことに美をみいだす、きわめて個人的な、ひとりひとりの日本人について述べられています。

会場にいた塾生のうち少なくない方々が「武士道」に共感されたようでした。
僕は、特に『茶の本』に興味をもちました。
なにが面白いかをまとめるためにレポートを書いてみたのですが、『茶の本』そのものを取り上げる形の方がしっくりくるので、特別篇としてアップすることにしました。

岡倉天心『茶の本』冒頭にはこうあります。

『茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。いわゆる人生という不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てである』

やられました・・・。

不可解なことばかりのこの世の中で、自分でコントロールできる事柄はごくわずかである。日常、身近におこる些細な出来事については、自分でコントロールしていると思い込んでいるが、実際には、思い通りにいかないことばかりである。この世の中、泣き寝入りするしか方法はないのか? いやいや、そうではない、岡倉天心のいう茶道による「やさしい企て」が、僕を前へと進ませてくれるのだ。そんな期待で、胸があつくなったのです。

たとえば「不完全なもの」あるいは「虚」について、こんな言葉が書かれています。

『室の本質は、屋根と壁に囲まれた空虚なところに見出すことができるのであって、屋根や壁そのものにはない』
『己を虚にして他を自由に入らすことのできる人は、すべての立場を自由に行動することができるようになるであろう』
『柔術では無抵抗すなわち虚によって敵の力を出し尽くそうと努めるのである』
『美というものは、不完全なものを前にして、それを心の中で完全なものに仕上げようとする精神の動きにこそ見出されるというのである』
『(道教において)道とは通路というよりはむしろ移り変わることである』

虚や不完全が、こころを動かし、美へと導く。究極的にむだをそぎ落とし、がらんとしてすらみえる茶室の数寄屋が、それを象徴しているというのです。
ただただ、天心の、もののいいぶりに、しびれるのです。
なかでも「琴ならし」という道教の逸話は、格別に面白い。

大昔、ある偉大な妖術者が、森の王とよばれる古い桐を切り取り、不思議な琴をこしらえた。この琴をうまくならそうと各地から名人がやってきたが、だれも成功しなかった。その強情な楽器の音色は、奏でたいと願う調べとはまるでそぐわない、あざけるような不愉快な音ばかりなのだ。そこへ伯牙(はくが)という男があらわれ、見事に奏でて見せた。皇帝は彼に問う、どこに技の秘密があるのかと。すると、伯牙は「ほかの者たちは、自分の事しか歌おうとしなかったから失敗したのです。わたしは、何を歌うかは琴に任せました」と答えたという。

普通に考えると、伯牙のように心を無にして琴をかなでることができないのが我々凡人である。余計なものを心の中に満たしているから、自由な精神の動きがさまたげられるという流れになると思うのです。心を無にすべし。
ところが天心は、真逆のこと、強情な琴が我々自身で、琴を奏でる伯牙が「真の芸術」であるというのです。傑作というものは、我々のうちに潜む最上の感情を奏でる交響楽であると。

ここで、茶道が「何か可能なものを成就しようとするやさしい企て」であるということに立ち戻ることができます。茶道は伯牙であると。
伯牙のやさしい企てによって、我々の精神は解放され、自由に動きだし、見事な音色を奏でることが可能になるのだと。
そうして『長い間忘れていた記憶が新たな意味を帯びて蘇ってくる。恐怖に押さえつけられていた希望や、自分でも気が付かなかった憧れが新たな輝きを放ちながら立ち現われるのだ』
そして『傑作は私たち自身であり、私たち自身は傑作』になる。琴でありながら、いつの間にか伯牙でもある。そうやって、移り変わっていくのであると、それが真の美であると、それを日本人は茶道によって体得しているのであると。

岡倉天心の、決して「やさしいと」は言い難い、むしろ鋭く斬新な企てによって、僕の心は共鳴をおこし、自分自身に心地よく響いているのでした。