8月2日の和塾・本科お稽古は、纒向学研究所センター所長、寺澤薫先生による「卑弥呼」。中でも主に、現在の奈良県にある纒向(まきむく)遺跡に関するお話しでした。
非常に乱暴にいってしまえば、邪馬台国は奈良県の纏向にあり、卑弥呼は纏向で政を司っていたというもの。寺澤先生のお話を聞くにつれ、現代考古学は、科学や、統計学を懐中のものとし、我々が驚くべき、新たな歴史観を日々、磨き、準備してくれていることがよくわかりました。
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和塾本科お稽古『卑弥呼〜王権の誕生』
日時:2014年8月2日(土)13時〜
講師:桜井纒向学研究センターセンター長・寺澤薫先生
会場:渋谷・数寄屋金田中
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現代考古学以前は、たとえば『魏志倭人伝』に「倭国全体にあった長期間にわたる騒乱を卑弥呼と言う一人の女王が鎮め」とあること、つまり中国の書物以外に、卑弥呼の存在を証拠とするものはなかったのです。しかし、現代考古学は、今に残された物証を分析的にとらえることで、書物にある記述を裏付けるとともに、より進んだ歴史的事実を明らかにしていくのです。
纒向(まきむく)遺跡は、日本で初めて「計画的に作られた都市」であったという事実を、僕は初めて知りました。
一般には7世紀の飛鳥時代の都に日本の国家の原点があると考えられていますが、実は3世紀、卑弥呼の時代に作られた都市、纏向に国家の原点があるとのこと。これは僕には驚くべきことでした。
現代考古学により、様々なことが分析され、以下のような証拠があがってきます。
纏向というほぼなにもないところに、忽然と都市が現れたこと。
纏向の都市以前に相当に力があった九州、つづく中国四国地域について。
それまで九州でしか発掘されなかった、権力の象徴である鏡が、以降、纏向に集中したこと。
中国四国地方(吉備)に発生した、原初の前方後円墳が、その後、纏向に引き継がれ、今知られる形に発展したこと。
これらは「倭国全体にあった長期間にわたる騒乱」を、卑弥呼が鎮め、その後、全国を治めるために、纏向に都市(国家)を作ったことによる結果に他ならない。
やがて、大規模な運河が纏向に向かって建設される。
その後、様々なものが纏向に流れ始める。
たとえば、北陸や、北関東、東海、九州で作られた焼き物が集まってきていたことがわかっている。
それらのうちには、高い身分の人が政で使用するものもあった。しかも、同じ形の焼き物が、地方ではなく、新たに纏向の土で作られた。これらは、ただ物が移動してきただけでなく、遠くから身分の高い人がやってきて定住していたことをあらわしている。こんなことは纏向以前にはなかったことである。
[写真は纏向遺跡から発掘されたさまざまな土器]
ものの流通、権力の集中。
このように、統計学や、科学の分析からわかる事実の積み重ねにより、纏向には、これまでにはなかった機能を持った都市、しかも「計画的に作られた都市」が生まれたことが示されていきます。
現代考古学以前には、日本国内には文献的な時系列を証明するものがなかったのですが、こうやって、様々な事実をつなげることで時系列を予測することが可能となり、再度中国の文献と細部を照らし合わせることで、卑弥呼が纏向にいたということが確実なものとなってきたのです。
なんだか、すごいですね。
そんな壮大な話の中で、僕が、一番惹かれたのが、人間の顔を模したお面の話でした。纏向以前は、お面といえば、みな鳥を模したものでした。それまでは、農業で豊作を願う祭りでは、稲の魂を運ぶ鳥(しらさぎ)を神として、崇めたのです。鳥に扮しお祭りをした。しかし、纏向遺跡では、人の顔を模したお面が発掘されたのです。日本で最古の人の顔を模したお面です。卑弥呼、運河、「計画的に作られた都市」へ。そこにうまれた、人が神に近づいていく感覚。なんだか注意が必要な気がしてしまいました。
寺澤先生によると、この人を模したお面へ向かう精神の流れが、神話へ、古事記へとつながっていくのではないかとのことでした。
そして纏向は、やがて高度な権力の集中へ向かい、皇族へ、巨大な国家へと確実に向かっていくのですね。
[写真は、纒向遺跡から出土した木製の仮面(弥生時代末~古墳時代初頭、3世紀前半)。古代の木製仮面としては国内最古で、これまでの例を約400年さかのぼる。古代祭祀の具体像を知る一級資料で、農耕儀礼や鬼追いのルーツという見方が出ている。]