日時:2009年6月9日(火) P.M.7:00開塾
場所:銀座 くのや 座敷
アダム・カバット先生、高校生の時、全部で14冊の英訳された日本文学の本を先生からいただいた。その中で、先生が一番感動した1冊が「源氏物語」。自分とはまったく異なる世界が広がっていて、ともかく心を打たれたそうです。その「源氏物語」は抄訳だったので、先生すぐに書店に走り全訳を手に入れた。250セントだった。家に持ち帰って休む間もなく一気読みした「源氏物語」がそれからのカバット先生をつくっていく基点になったのです。
今月の和塾は、3度目の、異国人先生による日本文化講座。アダム・カバット先生を迎えて「くずし字」の勉強です。
アダム・カバット先生
源氏物語が大好きなカバット先生、シェイクスピアには抵抗があるそうです。学校での辛い授業の印象がいつまでもつきまとうから。多くの日本人が源氏物語に抵抗を感じるのも同じ理由じゃないか、と先生は考えます。確かに、我々にとっての源氏物語は、忍耐と無味乾燥が幼い心を打ち続ける経験だった。恐ろしい古文の先生の存在しか思い出せない塾生もいるようで。文学を教材に使ってしまうと、文学嫌いを増やしてしまう。難しい問題ですね。
英訳の源氏物語に魅入られたカバット先生、次に出かけたのはニューヨークの日本語専門の書店。手に取った日本語の本を見て衝撃を受けたのは当然のことです。文字の向きすらわからない。上を向いているのか、下なのか。右から読むのか、左からか。初めての日本語は、先生にとってそもそも「文字」ですらなかったのです。その先生が、今ではその日本語の「くずし字」を教えている。本当に立派です。すごい。
やっと日本語が読めるようになったカバット先生は、やがて泉鏡花を研究するようになる。「高野聖」の泉鏡花ですね。 で、その鏡花の作品の中で、先生はカッパに出くわした。ある作品の中に、漁師が化け物に出会って、次のように話す一節がある。
「何しろ、水ものには違えねえだ。野山の狐鼬(いたち)なら、面が白いか、黄色ずら。青蛙のような色で、疣々(えぼえぼ)が立って、はあ、嘴(くちばし)が尖って、もずくのように毛が下った。」
「そうだ、そうだ。それでやっと思いつけた。絵に描いた河童そっくりだ。」
—『貝の穴に河童の居る事』泉鏡花
日本人ならこの部分は大きな疑問なく通過する。「そうだ、そうだ。・・・絵に描いた河童そっくりだ」に引っかかる人はほとんどいないでしょう。カッパに対する共通理解があるのですね。ところがニューヨークに生まれ育ったカバット先生、そうはいかない。「絵に描いたカッパ」? 「河童」って何? というわけで、先生今度は河童を調べ始める。辿り着いたのが江戸時代の絵本「草双紙」。やっとその「絵に描いた河童」に出会えたのです。ところがここで次なる大問題。書かれた文字が「くずし字」だったのです。平仮名を覚え、カタカナを学び、漢字に悶絶して、やっと泉鏡花を読めるまでの日本語能力を手にした先生、ここで再び「読めない日本語」に突き当たった。
草双紙の河童
そこから先生の「くずし字」との格闘が始まります。毎日国会図書館に通って、草双紙を片っ端から複写する。河童がきっかけだったから、妖怪・化け物が出てくる双紙ばかり複写する。それまで、そんな妙な双紙を複写する人などいなかったから、先生図書館の有名人になった。「化け物のカバット」というのが、その時ついた綽名だったとか。
55才の今、カバット先生は日本人にその「くずし字」を教えている。日本の化け物研究でも第一人者になっている。すごいことです。
では、本題の「くずし字」の読み方。
先生によると、くずし字は練習さえすれば誰でも容易に読めるようになる、とのこと。特に、現在の仮名とは全然違う形のものをしっかり覚える。数はそれほど多くない。それだけでも、くずし字はかなり読めるようになるのです。
具体的に見ていきましょう。
第一図
第一図は玉子のお化け。「卵(う)めがつけば玉子のばけもの」と書いてある。卯の字にテンをふたつ、つまり目を書き加えると卵になる、というわけ。「卵(う)。目が付けば、玉子の化け物。」と読めます。ここで問題になる文字があるとすれば、現在とは形が異なるものですね。例えば、3文字目。これは「が」です。「可」から変じた「か」で、現在の「加」から変じたものとは全然形が違う。だからこれを覚える。次は、最終行の一番上。「ば」ですが、我々が知っている「ば」とはまったく別の形です。これも覚える。それだけでこの例文は完璧に読めますね。確かに簡単。「か」と「ば」。覚えましたか?
次の例文も読んでみましょう。
第二図
まず二文字目がわかりませんね。これは「つ」。「川」から変じた「つ」です。なんで「川」が「つ」になるんだ、などということは今は考えないで覚えてしまう。次は3行目の最後。これは「ふ」に見えますが実は「に」です。草双紙に頻出するからしっかり覚える。4行目の頭は第一図にあった「ば」ですね。5行目の二文字目。これは漢字。「志」つまり「し」です。6行目の3文字目。先ほどの「に」です。「ふ」ではありません。同じ行(6行目)の最後はその前の文字「み」とつながっているからちょっとわかりにくいが「へ」です。最後の行は「ける」。「け」がわかりにくい。これも覚えましょう。
これで全文が判明した。「かつてのとうぐそれゝにばけてやしょくのていにみへける」とある。ただし、文字が判明しても文意が不明なこと、草双紙ではよくあります。句読点がなくて文の切れ目がわかりにくく改行のルールも適当。その上、当たり前のことですが旧仮名遣い。ここからはじっくり読み直して考えるしかない。二番目の例文は「勝手の道具、それぞれに化けて夜食の体に見えける」というわけです。台所の道具たち、鍋や釜が妖怪に変化して夜食つくってるようです。
第一段階で理解すべきくずし字の一覧は以下の通り。
といっても、ほとんどが、現在の仮名から類推できますから、明らかに形の異なるものだけをマスターすればなんとかなりそうです。あとは繰り返し。外国語の学習と同じです。
草双紙
その表4
中面
今回の稽古では、その草双紙や黄表紙の実物を拝見することもできました。何百年も経っているのにしっかりしている。和紙を糸で綴じた日本の古い書物は、近頃の書籍よりずっと丈夫で長持ちなんですね。
それから、草双紙はご覧のように基本的に平かなで書かれている。漢字はほとんどない。いわゆる「古文書」の類とは違います。だから、少し練習すれば誰でも読めるようになるということです。
こちらは黄表紙 貴重品です、
その中面
こうした草双紙の類は、これまで評価が低く、糸綴じの絵本を書籍とは認めない研究者もいたとか。だから、江戸時代の日本には書籍がなかった、なんて暴論もあるそうです。実際は、当時の日本は世界最大の出版王国だったのですがね。
丈夫にできています。
ところで、こうした木版の「くずし字」を入れ込んだ絵本は、明治の中頃までさかんに出版されていました。活字を使用する活版印刷は江戸時代の初期にあったということですから、読みやすさや効率を考えると「くずし字」が生き長らえたのは不思議なことです。カバット先生によるとそれは、「美しさ」を目的とする日本の文化・文明によるものではないか、ということ。木版で刷った挿絵と活字の文字の組み合わせは「美しくない」。活版の「活字」には「くずし字」にある「美しさ」が感じられない。だから、江戸期の日本人は、わざわざ「くずし字」を残したのです。本来の目的だけではなく、常に「美しさ」を組み込む。こうした考え方は日本が誇るべき独自の文化なんですな。 そういえば、日本刀や甲冑のお稽古の時にも、同じ文化を学びました。※参考リンク→:[第28回お稽古ー刀剣研磨〜刃文の美ー]・[第54回お稽古ー甲冑~戦闘の芸術品ー] 戦闘に役立つという本来の目的を越えて、「美しさ」を追求する。刀に不必要なほどの刃文の美を加える。兜に「愛」の字の前立を付け加える。まことに日本人は美しくあることを大切にする人間なんですね。美しい国、それがニッポンなのです。
カバット先生、楽しくて為になるお話し、ありがとうございました。
アダム・カバット(Adam Kabat)
1954 米国ニューヨーク生まれ
1979 初めて来日
1985 東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了
1988 東京大学大学院比較文学比較文化専門課程博士課程満期
1988より武蔵大学の教鞭にたつ
現在 武蔵大学人文学部日本・東アジア比較文化学科教授
専門:日本近世文学
主な著書
『江戸化物草紙』(小学館、1999年)
『大江戸化物細見』(小学館、2000年)
『妖怪草紙 くずし字入門』(柏書房 2001年)
『江戸滑稽化物尽くし』(講談社メチエ、2003年)
『ももんがあ対見越入道 江戸の化物たち』(講談社、2006年)
妖怪草紙―くずし字入門 (シリーズ日本人の手習い)
アダム カバット / 柏書房
江戸化物草紙
小学館
大江戸化物細見
小学館