ーやきものの魅力をたずねてー荒川正明先生 第七回混合クラス

日時:2010年1月20日(水) P.M.7:00開塾
場所:六本木 はん居

Text by miyaben
はん居和塾、一月の講師は、日本美術史家の荒川正明先生。先生は、学習院大学で陶磁史を研究されたのち、出光美術館にて17年間学芸員を務めてこられました。
お稽古のテーマは、先生ご自身の「やきものの楽しみ方」ということですが、それは日本の陶磁史の概論とともに、とりもなおさず日本人がいかにやきものを楽しんできたかを俯瞰するお話しでした。

荒川正明先生のお話し

 

「やきものはさわって、できれば使ってみて、はじめて本来の楽しみ方ができる」
というのが先生の持論です。
広範なお話でしたが、塾生の私なりにまとめてみます。

日本人の土器への愛着
日本のやきものの起源は、縄文式土器。いまから1万2千年前ですから、世界最古のやきもののひとつといっていいでしょう。土器の時代は1万年続きました。気も遠くなる年月です。この事実が日本人の精神風土のなかに土器に対する愛着が育まれてきたようです。
平安時代には、中国産の高級磁器は大量に輸入されていましたが、公家の特別な式では必ず土器を使われていました。「かわらけ」と呼ばれる手びねりの素焼きで、一度使ったら捨ててしまうそうです。神との直会の席で使われ、用が済むと汚れたとされました。今でも伊勢神宮では、神に御餉(みけ)を捧げる器は、使い捨てのかわらけだそうです。
そのDNAは歴史上、連綿と続き、桃山時代に始まる茶席の器は陶器ですが、あえて手で土をこねて、ろくろを使わず立ち上げ、低温で焼くというところも、どこか土器につながる系譜のようです。
また、江戸時代中期の尾形乾山は、あえて土器に琳派のモダンさを描いた作品を作って話題になっています。
西欧では、磁器が一番上等で、陶器、土器の順で好まれますが、日本人には、そういう区別はなく、むしろ土器への遠い郷愁が見られます。

荒川正明先生

 

土の呪力
面白いのは、やきものを焼く土にも意味があったのではないかという話でした。
楽焼きという名前の由来は、聚楽第にあった場所の土から作られたからだそうです。そして聚楽第があった場所というのは、内裏のあった場所。秀吉は楽焼きをとても好んだのも、そこに天皇につながる呪術的なものを見ることができます。
別の例では江戸時代にはやった「お庭焼き」。藩主が自分の領地の、由緒のある場所の土で焼く。これもまた日本人の土への信仰が影響しているのでしょう。
乾山もまた仁和寺の奥に鳴滝竃を構えますが、ここはもと二条家の屋敷跡です。ここの土地から王朝の美意識を吸収しようとしたのかもしれません。

釉の流れと文様、そして壷
呪力は、土だけではありません。
7世紀頃の焼締め陶器である須恵器に、灰が溶けてできる自然釉が見られます。日本人は、ここに自然が作り出す釉に凄みを見、火のエネルギーを感じ取りました。
この好みは、たとえば利休の侘びのなかに、色や文様を排して、自然のパワーを吸収しようという姿に続きます。
さらに桃山以降、織部や志野などの陶器に文様を描くことが始まりますが、描かれた文様はただ美しさを追求したものではないと、先生はおっしゃいます。その当時、橋の文様は数多く描かれますが、これはこの世とあの世とをつなぐ象徴、つまり聖と俗の境界を表し、異界の人と出会うということを意味しています。柳など、上から垂れる植物や垣根は、結界だそうです。つまりお茶を飲む器に結界を作る。これは茶の湯の文化を根本的に見直すための補助線かもしれません。
さらに形自体にも、日本人は無意識な祈りが込められています。
壺は「壺中の天」という言葉に象徴されてるように、その内部に特殊なエネルギーが宿ると考えられ、まさに再生のイメージです。エネルギーを得て、何かを生み出す。これは骨壺も花活けもお茶入れも、どこかにそういうイメージと無縁ではありません。

やきものを飾るということ
近代までは、やきものはたとえ釉や文様の美しさを賞玩したとしても、基本的に使うもの、実用の道具として存在していました。
ところが明治時代に建築家ジョサイア・コンドルは、岩崎弥太郎の深川別邸にはじめてやきものを飾るための部屋を作りました。それ以後、親友のフランシス・ブリンクリーとともに、洋間に器を飾る文化を定着させます。その文化はたちまち日本を席巻し、とくに古伊万里は近代以降は、鑑賞陶器ばかりになり、ほとんど使われなくなります。
しかし、先生は言います。
「一万円の醤油注しでも、使わなくてはいけません。見ているだけではその価値も楽しみもありません。使う道具が博物館にあってもどうでしょうか」
やきものには、私たちの祖先が込めた祈りや畏れがあるのです。

時を超えて陶工と手のひらで会話する
はん居のかたわらには、今回も田島塾生の協力で、やきものの名品がずらりと並んでいます。お稽古のあとには塾生はひとつひとつを手にとって眺めるという贅沢を味わいました。数百年の時を隔て、やきものを作った陶工の手のぬくもりが感じられるような不思議な体験でした。

右)乾山の筆立て。左)乾山工房も18世紀以降は量産化をめざし、文様も型紙を使用しました。

釉の美しい美濃の器。上から見ると分銅の形。美濃焼といっても、デザインは京都。

鼠志野の茶碗。志野は1590年代から1600年頃までのわずかな時代(桃山末期)にしか作られなかったといいます。

器を拝見するときは、両肘を太ももにあてがい、腰をかがめ、なるべく低い位置で。

 

お稽古前、逸品の器を鑑賞する荒川先生。

手前)繊細な草花模様が美しい柿右衛門の花瓶。

 

日本やきもの史

荒川 正明 / 美術出版社

 

やきものの見方 (角川選書)

荒川 正明 / 角川書店