Text by nn
今回のお稽古では、早稲田大学名誉教授であり、人間国宝の選定委員でもある鳥越文蔵先生にお越し頂き、先生曰く日本における劇作家第一号である「近松門左衛門」について、特別講義をしていただきました。
鳥越文蔵先生
人間国宝を選ぶ人って、ちょっとすごいですよね。日本の価値基準をつくっている方とも言える訳です。そんな先生と一緒に、国立劇場の楽屋に入るとすれ違う全員が先生に対して最敬礼。自分もなぜだかエラくなった気分に浸ることができます。演劇界最高峰に君臨される鳥越先生。今回のお稽古では、5月文楽を一緒に観劇し、その延長での講義となりました。贅沢です。以下、貴重な講義のご報告です。
「日本は芸能が豊かな国である。」とは、鳥越先生の師匠である河竹繁敏先生のお言葉。では、なぜ日本は芸能が豊かなのか。それは、逆に日本が豊かな国ではなかったからだとおっしゃいます。季節や気候変動が大きい国である日本では、生活は自然のバイオリズムの中にあり、毎年を生きていくために、豊穣を願う神様へのお祈りが盛んでした。雨乞いの踊りは、いまでも全国各地でお祭りとして残っています。それが日本における芸能のもと。庶民が体を一生懸命動かして踊り、謡い、神様へお願いする。そのころは娯楽ではなく、生きるための術であり、自分たちが楽しむことが主題ではなく、神様に対してみてもらうためのものでした。それが技術と経済の発展とともに、神頼みと切り離され、純粋に人が楽しむものへと変化していきます。
さて、日本最初の劇作家は、近松門左衛門と先生は言います。豊穣を願う踊りにも、作者はいたはずです。もしかするとその無名の作者の中に、日本の劇作家第一号はいたかもしれません。しかし、その記録は残っていません。ちなみに、観阿弥・世阿弥も、有名な演目を多数つくっておりますが、彼らは自分が演じるために創作しています。近松は他人が演じるために劇をつくり、それが劇作家第一号と先生が認定する理由でもあります。
近松門左衛門は、1653年生まれ。「元禄の三代文豪」と呼ばれる芭蕉、西鶴、近松ですが、芭蕉と西鶴は、それぞれ1694年と93年に没しています。近松が世に知れはじめたのは、実はその頃から。芭蕉が没したまさにその年に、浄瑠璃の作家であった近松は坂田藤十郎の歌舞伎作品もつくるようになります。その間およそ10年余り。そこで歌舞伎の演出、現代の事件を取り扱うという世話物の手法を学び、その経験を踏まえ、1704年51歳のときに作成された浄瑠璃が、当時実際にあった心中事件を題材にした『曾根崎心中』です。これが空前の大ヒット。近松門左衛門の名は、芸能の枠を越え、一般に知れ渡ることとなります。以降、浄瑠璃は全盛期を迎え、近松は「元禄の三代文豪」に名を連ねることになるのです。
近松がすばらしい作品を作り上げることができたのは、喜ばれない出生を持つためだとの説もありますが、武家に生まれながら、少年時代に京都に移り、公家奉公をしていたと言われます。本名は、杉森信盛。その名が歴史上に初めに現れるのは、1671年の山岡元隣編『宝蔵』という俳書の中。杉森一族の句が多く入集しているところに、信盛の名で「しら雲や 花なき山の 恥かくし」という句がみられます。劇作家として有名な近松の最初の作品は、なんと俳句。しかもなんとも可愛らしい句でした。それが19歳の時。この句、後年の浄瑠璃に見られる近松のたぐいまれなるセンスを感じる句と思われていました。しかし、『宝蔵』の15年前に刊行された『夢見草』という俳書において頼広という人が「つむ雪や 花なき山の 恥かくし」という句を詠んでいたことが発見され、先の信盛の句は大胆不敵な盗作として、いやぎりぎり本歌どりの手法を用いた作品として知られることとなります。元禄の三代文豪ともなると、はっきりと評価するのが難しいのか、俳句の才能はわからないが、盗作いや換骨奪胎の才が認められるというようなちょっと苦しい評価までみられます。ただし、公家奉公の中で俳句を始め狂言や絵などの教養を得る環境に育っていたことは確かで、その頃からセンスが磨かれていたと思われます。
その後10年ほどの間、信盛は歴史に顔をあらわしません。信盛は、何をしていたのか。京阪を中心とした上方都市では、人形浄瑠璃が盛り上がりを見せてきたのが、ちょうどその頃といわれています。信盛も世の興味惹かれたのか浄瑠璃と出会い、浄瑠璃作家の道を歩みはじめていました。そのきっかけとして知られているのが、宇治加賀掾という浄瑠璃太夫。加賀掾は、掾号を得るほどの名人で、文才も豊か。よっぽど惚れ込んだのか信盛は、加賀掾のもとへ入門し、近松門左衛門という名で浄瑠璃を習作しはじめます。近松門左衛門の誕生です。ちなみに、浄瑠璃における掾号を戦後で下賜された人は2名だけ。時代背景の違いもあり、単純に比較はできませんが、加賀掾はかなりの名人だったと思われます。
修行をつんだ近松の作品は、師匠である加賀掾の一座で演じられはじめます。ただそのときはまだ世間に名を知られていません。浄瑠璃は太夫中心の世界、基本的に作家の名前は明記されない時代でした。その頃のもので、近松の作かもしれないが確証はないというものが20程あり、存偽作と呼ばれ、いまだに是非が審議されています。いつか新たな近松作品があらわれるのでしょうか。楽しみです。
その加賀掾の一座にいた竹屋庄兵衛という興行師が、加賀掾と喧嘩別れし、新たに大阪道頓堀に立ち上げたのが竹本座。その旗揚げとして1684年、演じられることになったのが近松門左衛門の『世継曽我』でした。同じく加賀掾一座から抜け、竹本座の太夫となっていた竹本義太夫によって語られ、公演は大成功。加賀掾は、抜けられた怒りもあり、公演を邪魔するため隣で井原西鶴作の『暦』を公演します。そこで竹本座は近松門左衛門を大々的に取り上げ、加賀掾一座と客を取り合うこととなります。お互いに西鶴の新作と近松の作品をぶつけ合いデッドヒートの様相を呈していた、そんな折り、加賀掾一座は原因不明の火災により、撤退。竹本座は大阪に確固たる地盤を築くことになります。その竹本座の公演から、近松門左衛門の名前は世にでることとなります。
しかし、まだまだ浄瑠璃の隆盛にはいたらず、竹本座は大きな借金を積み重る状況。そんな中、近松は京へでていき、歌舞伎の作品も手がけるようになります。歌舞伎狂言作者であった金子吉左衛門という人に教わりながら歌舞伎の手法を学び、初代坂田藤十郎を懇意とし彼のために、作品を書きつづけました。その間10年。お客さんの反応によって随時、台詞や演出を変えていくような世界、近松の腕はどんどん磨かれていきます。そのような生活をしていた中、大阪へ旅した近松に、かつて一緒に働いた道頓堀の竹本義太夫より声がかかります。それは、当時の話題となっていた心中事件を題材にした浄瑠璃執筆してほしいとの依頼。歌舞伎の手法を学んでいた近松には手慣れたもの。そうして出来上がった作品が『曾根崎心中』でした。流行のニュースということもあり、社会現象になる程の大ヒット。竹本座は『曾根崎心中』のおかげで莫大な借金を返済したと言われる程になります。
その『曾根崎心中』のおかげで、巷では真似して心中するという事件が多発、数回で禁止され、それ以降上演はされなくなりました。その後、心中ものの上演は幕府によって禁止されてしまいます。今でも上演されている『曾根崎心中』、今年も8月に杉本文楽で上演されますが、復活したのは昭和28年になってから。宇野信夫が脚色し復活しました。ちなみに、「心中」=死ぬ、ではないのはご存知でしたでしょうか。軽いほうから、髪をきる→爪をはがす→指をきる→ももを突く→死ぬとなっていたとのこと。いつの時代も色恋沙汰のしがらみを終わらせるのは大変ですね。鳥越先生が好きな台詞は、心中に行く道行の文章。
「この世の名残、夜も名残、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ。あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなりー」
なんとも五感に響く劇的な表現です。七五調のリズムも気持ちがよく、荻生徂徠にも「妙処此中にあり、外は是にて推しはかるべし」と絶賛されているこの台詞、正岡子規には酷評されています。お互いの解釈を通してみてると『曾根崎心中』の本質がみえてきます。ご興味のある方は、小林恭二著『心中への招待状 華麗なる恋愛死の世界』を読んでみてください。
以後、近松は、竹本義太夫とタッグを組み、浄瑠璃執筆へ戻ります。義太夫が没した後は、竹本座のまとめ役として浄瑠璃を盛り上げる役割を担うこととなります。近松の晩年は、竹本座を取りまとめながら、執筆を続け、また後継者の育成に心がけ、72歳で大往生。近松が育てた作家たちが育ち、人形浄瑠璃の全盛期を迎えることになります。
辞世の句 「残れとは 思ふも愚か 埋み火の 消ぬ間徒なる 朽木書きして」
まだまだ「近松門左衛門」の入口に足のさらにつま先を踏み入れたばかりですが、お稽古はお開き。大酒飲みの鳥越先生と塾生で、居酒屋へ。美味しいお酒をのみかわしました。鳥越先生、また美味しいお酒を飲みましょう。有り難うございました。次回は、近松の作品を紐解きながら、より深いお話も伺いたいと思っております。尚、先生の好きな作品は、『女殺油地獄』とのこと。次回の公演の際もご一緒願いたいと思っております。