和塾の思い・その2/「勝ち負け」を越える
勝ち組と負け組。そんな言葉が目につくようになって既に10年くらいになりますか。
勝つ人と負ける人が出るというのは、パイの大きさが固定しているということ。誰かが一切れ余計に食べると、他の誰かの食べる数が一切れ分少なくなる。まあ当たり前の算数で、たくさん食べる人が現れると、まったく食べられない人も出てきます。勝ち組と負け組、ということです。今の日本はそういうことになっている。総市場が固定化しているのだから、勝つ人の裏に負ける人あり。成長期にはこのようなことは起こりません。パイ自体が大きくなっているわけですから、三切れ余計に食べる人がいたり、二切れ余計に食べる人がいたりする。つまり、勝ち組と負け組ではなく、勝ち方の差ということになります。少し勝つ人とたくさん勝つ人。負ける人はいない。誰もが自分なりに夢を持てて、社会がとても前向きな時代です。今の中国などはちょうどそんな感じで、混乱しているけれど誰もがなんだか前向きで、騒々しくて落ち着きはないけれど誰もが未来を信じている。日本では、昭和の30年代などがそんな社会だった。
さて、日本にもまたあの頃のような時代がやってくるのでしょうか? 勝ち組と負け組などという悲しい格差に追われない時代が。誰もが自分の未来を信じて、今少々苦しくても明日のためにがんばれる日々が。つまりはパイ自体が拡大していくような社会が、これからの日本にまたあらわれてくるのか。
残念ながら、これ、かなり望み薄であります。少子高齢化、総人口の減少が確実な我が国は、パイ自体をさらに拡大することなど、基本的に難しい。国外にパイを求めるのもそう簡単な作業ではありません。それに、そもそも我々はこの地球の中だけで生きているわけで、その地球をパイのサイズのように徐々に大きくしていくことなどあり得ない話しですから。
それじゃ日本には(あるいはまた世界には)もう未来はないのでしょうか。豊かな明日を信じることができない時代がこれからずっとつづいていくのでしょうか。もしそうだとすれば、日本人はこれからずっと下を向いて生きていくことになる。それは悲しい。けれど仕方のないことなのか。
そんな時代でも尚、豊かな明日をつくるために、我々は少々視点を変える必要があるのじゃないか。従来の基準とは異なる考え方。違う物差しで判断することが求められているのではないか。
例えば、勝ち組と負け組。考えてみるとこれはたんに経済的な尺度でしかありません。超高給のファンドマネジャーがいれば、年収200万円のフリーターがいる。自宅の他に二軒の別荘がある人と、公園で暮らす人。過去最高の利益を計上した会社と、貸し渋りで倒産した会社。勝つということは経済的に成功することであり、豊かであるというのは所有の多寡でのみ計られている。勝ちと負け、豊かさと貧しさの基準がそれだけというのは、ちょっとおかしな事だと思いませんか。
もし我々がこれからもこの「経済」という基準しか持てないとすれば、未来はあまり明るいものではないでしょう。個々の人間としても、社会全体でみても、誇りを持って進むことがとても難しいことになる。
思えば日本という国は、かつて「軍事」で、その後は「経済」で世界を席巻してきた。日本人はそれが故に胸を張ることができた。軍事はともかく、経済での躍進は評価に値するものかもしれません。世界第二位のGDP。それはそれで、よく頑張った。けれど、勝ち組と負け組がはっきり区分けされるようなことでは、この地位を今後も継続させることはとても難しい。パイを飛躍的に拡大させている新興国が次々に現れている。競争はますます激しくなる。国内では労働人口が着実に減少していく。
新たな価値基準を確立しなければならない時が迫っていると思います。もとより、軍事や経済を物差しにした生き方はもはや袋小路に突き当たっていると思いませんか。これを継続することで世界は本当に豊かになるのか。大げさに言えば、ことは日本だけの問題ではない気もします。
和塾の活動は自分たちの「文化」が基準です。その豊かさの指標は、他者のパイをさらに奪って年収5000万円を目指すようなハタ迷惑なことではありません。例えGDPが世界最下位になっても関係ない。長い歴史や深い洞察、多様で成熟した文化の存在を物差しにした生き方。次の時代で我々がいったい何を評価し、何を誇り、何をして胸を張ればよいのか。ヒントのひとつがそこにある。これまで多くの人が使ってきた軍事や経済とは異なる指標。経済的成功と失敗、勝ち組とか負け組とは別次元の価値観。
幸い我々の暮らすこの国には多くの素晴らしい「文化」があります。世界の中でもユニークなオリジナリティあふれるものも多い。能楽・文楽・歌舞伎の世界遺産はもとより、茶道・華道・書道・香道、三味線や尺八、陶器・磁器・漆器、浮世絵・蒔絵・水墨画、書院造りや茶室・城郭、幇間に投扇興なんてものもある。知れば知るほど、学べば学ぶほど、誇らしい気持ちが芽生えてくる。豊かな社会が見えてくる。
その誇らしさや豊かさは、勝ち組となって自分のクルーザーに乗って高級ワインを飲むような生活で手にする誇らしさと比べてどうなのか。多くの人が疑うことのなかった物質的な豊かさと比べてどうなのか。身近な存在ではなく、遠い異国の文化に大きなエネルギーを費やして追いすがることと比べてどうなのか。幼い頃からピアノやヴァイオリンを学び、長じてはオペラに通い、フランス料理に精通する日本人。世界から高く評価されるのはそんな日本人なのか。
これはもちろん、ピアノやヴァイオリン、オペラやフランス料理を否定することとは違います。和塾の活動は決して国粋的なものではなく排他的なものでもない。異なる文化を否定することなど問題外。自国だけが特別に優れた存在であると思い詰めるような偏狭な思想とは無縁です。いやむしろ、自らの文化を学びそれに敬意を払うことは、他の文化を尊重しその存在に尊敬の念を抱くことに直裁的につながることなのです。自らを見つめることによって、他者への視線が鍛えられ、他者への敬意をはぐくみ、ために自分たちへの敬意をも手にする。充分にローカルであることこそが真にインターナショナルであるのだ。それが和塾の活動の原理です。そこにこそ、真に世界的な評価も存するのではないかということなのです。
今、さまざまな事象があらゆるところで行き詰まっているように思います。これを捉えて、さまざまな「変革」が試されている。世界中でたくさんの人々が何かを変えようとしている。日本でも「改革」が錦の御旗になっているようなところもある。けれど、行動の基準そのもの、価値を計る物差しそのものが従来通りでは、変革も大きな力にならないのではないか、とも思います。旧来の基準では先行きの暗さばかりが目立つ我が日本では、これはことに重要なことでしょう。それでも尚、世界第二位だとかの地位を守りつづけるために、無理と軋轢を受け入れていくのですか。ちょっと別の基準で、胸を張って生きていくことはできない相談なんでしょうか。和塾はそこを問うてみたい。
勝ち組・負け組などという愚劣な物差しではなく、「文化」という豊かさや誇り高さに対する新しい価値基準を楽しんでみる。それも和塾の思想と哲学のひとつであります。やってみる価値はあるのじゃないか、と思いませんか。それで世の中の何かが少し豊かになれば良いのだけれど・・・。
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