日本文化市場論 第十二話

日本文化について考えてみる。第十二話

第一章:和のブランド価値
→目次
第二章:和の競争戦略
→第九話「洋と和のポジション」
→第十話「維新の罪」
→第十一話「弱さと柔らかさと」

前回までの三話、明治維新以降の日本文化のポジショニングについて、主に日本の側からの考察がつづいていました。例えば、日本人の「弱さと柔軟性」がそうしたポジショニングを確定させたのだ、などなど。
さて、今回はちょっと違った視点からの考察です。今度は、侵入してきた西洋文化の側から同じ事態を眺めてみた、というわけです。これまた、刺激的な考察。ちょっと陰謀史観めいていますが、どうでしょう。異論反論、お寄せください。

トール殿

拝啓
ブランド価値の定義にくらべると、この「和のポジショニング論」は、比較的素直に収斂しますね。多様で広範な価値領域を持つ我が国の文化は、その中心的価値を探り始めると終わりのない隘路に迷い込みそうな気配がする。だが、それらが総体として、明治以降、特に昭和の戦後、どうにもネガティブなイメージ領域にはめ込まれてしまった、というのは異論の余地があまりない。そして、そのポジショニングゆえに「和」の市場内競争力は大きく減衰した。
では、なぜそんな事態になったのか、今回は少し別の視点を考察してみようと思います。

身の回りを見渡すと、我々の生活の中の「和」はまことに小さな存在です。身につけるものはそのほぼすべてが洋装で、和服を身に纏うことなどまずない。そもそも、和服を所有しない人のなんと多いことか。天ぷらや寿司も、ちょっと特別なことでもないと食さない。和室のある家は、今ではむしろ珍しくなっている。和室がないのだから、そこに欠かせないもの、障子だとか襖だとか掛け軸だとかも、もちろんありません。休みの日に出かけるのは、ハリウッドの映画か、ブロードウェイ生まれのミュージカルか・・。歌舞伎や文楽、能楽などは、片隅に追いやられた珍しい娯楽でしかない。ゴッホやピカソの絵画は、誰もが知っているというのに、等伯や永徳、北斎の絵画をしっかり認識している人がどれほどいるのか。テニスに興じゴルフを学び、ベースボールやフットボールを観戦する。そんな人は珍しくもないが、投扇興に興じ弓道を学び、蹴鞠と流鏑馬を観戦する人がいたら、それはもう変人と言って良い。
普通の日本人がその生活の中に、日本の事物をほとんど見いだせない。冷静に考えると、ずいぶん惨めな民族ではありませんか。

けれど、ほとんどの日本人は、そのような現実を惨めとは考えない。悲しい状況だと認識する人も、ほとんどいないでしょう。いや、むしろ、自ら進んでそのような状況を受け入れている。これこそ、洋の文化による見事なマーケティング戦略の結果ということでしょうか。ことに、昭和・戦後における洋のポジショニングは、ある意志の元に実行された戦略だったのではないか、とまで思ってしまう。それほど絶妙。では、その「ある意志」とは何か。

近代マーケティングにおいては、市場はできる限り統一された性格を持つ方が良い。文化的背景・消費者の嗜好・性行が同一であれば、企業活動はあらゆる意味で効率が良くなる。それはそうです。例えば、日本人が着物(和装)の文化を維持していたら、アルマーニもシャネルも、これほどの売上を日本の市場で確保することなど不可能でしょう。日本の食文化が江戸期のそれを維持していたら、マクドナルドのハンバーガーもコカコーラも我が国の市場に定着することは難しい。つまり、文化の多様性は企業活動を阻害する要因なのです。だから、世界中の独自で貴重な民族文化は、国際的な企業活動の結果、次々と西洋のそれに取り替えられていく。欧米諸国に所謂「国際企業」が生まれた時から、このような市場の統一が進行していったのではないか。国際企業にとっては、文化が地域によって異なることは許し難いことなのです。だから、進出した各地で、その地域独自の文化を主流から傍流へと変位させる必要があったというわけ。グローバルな国際社会の形成とは、一方でこのような市場の均一化運動という側面をもっていたのです。
明治維新以降150年にわたって我が国に巻き起こった独自の文化の衰退は、こうしたことの結果だったのだ、とも言えるのではないか。現在でもそうした「マーケティング活動」は、さらに巧妙化して継続している。そして、そうした文脈の上に構築された自国の企業までが、その国際化の効率を高めるために、今度は自ら進んで自国の文化の世界基準への統一を望む。世界が所謂「グローバル・スタンダード」で統一されれば、同じ商品、同じサービスが世界で売れる。小学生に英語を学ばせ、魚より肉を好み、幼い頃から西洋音階に親しめば、国際企業の売上はさらに向上するのです。

貴殿が指摘するように、明治以降、洋の文化は「新しくて楽しい」イメージ領域を占拠し、対する和の文化は「古くてつまらない」領域に落とし込まれた。ただそれは、日本の人々が、黒船や大空襲に狼狽した結果自らの原点を卑下した結果であると同時に、国際市場の統一という大きな力学のなせる技でもあったのだろう、と。まさしくそこに「マーケティング」があり、その見事な結実として独自の文化の衰退があった。
室町・戦国の時代にも、南蛮渡来の事物が大量に流入していたのに、日本固有の文化が衰退するといった事態にはならなかった。当方それがとても不思議でした。明治以降の状況と何が違ったのか。江戸の終わりまで、外来の事物はあくまで傍流だったのに、明治以降はそれが主流となった。そこにどんな力が働いたのか。大きな要因のひとつが、「国際企業」の有無だったと解することはできないでしょうか。欧米の企業が持つ総体的な意志が世界市場の均一化を進め、日本の文化のポジショニングを決していたのではないか。国際企業の意志、言い換えればまさしく「マーケティング」の有無が文化の多様性に大きな変異を迫ったのではないか、と。
そうだとすれば、世界はまことにやっかいな事態にはまり込んでいる・・・。

先日、佐渡の保護センターにテンが忍び込み野生絶滅種(環境省レッドデータ)であるトキを殺してしまう、という事件がありましたね。トップニュースになっていた。トキは学名「ニッポニア・ニッポン」という文字通り日本を象徴する鳥。なのに、乱獲と開発で激減し、2003年に日本産の最後の一羽が死亡しています。つまり、野生のものは既に絶滅。現在中国産のものを保護センターで繁殖させているのです。メディアにもしばしば登場するから、人々の興味関心は高い。官民ともにその動向を注視している。貴重な絶滅種の繁殖と将来の野生化を目指して。では、なぜ人々はそうした活動に注目し関与しているのか。
生物の多様性を守ることは、今では国際的な合意事項となり、世界中で固有の動植物、特に絶滅のおそれのある種に、支援の手がさしのべられています。多様な世界は、多様であるからこそ強靱であり、多様さが失われた世界はとても脆弱です。単一の生態系は環境変化への対応力が弱く、ちょっとしたことで全滅の危険にさらされる。多様な世界を構成する個々の要素は、互いに関連していて、ひとつが欠けることによって全体のバランスが崩れていく。だから、この世は、複雑で非効率的であることが重要なのです。ひとつでも多くの絶滅種を救い、多様な世界を守ることは人類の未来のためにもとても大切なことなのです。だから、今、人々はトキを守る。
当方、文化の多様性についても同様に考えるべきだと思うのです。そんな風に考える人はまだ少数派なのでしょうが、いずれ世界はそれに気づくはずです。生物同様に文化の多様性も、世界を持続させる重要な要素であることに。大仰な物言いを許してもらうなら、世界が単一化した時、人間は絶滅へのカウントダウンを刻み始めるのだということに。賢明なる人々は、いずれそれに気づき始めるはずだと信じたい・・。
しかし、事態はそれほど楽観できる状況ではないのかもしれない。世界中の企業が、そのマーケティングによって今日もまた市場を統一しようと賢明な努力をつづけているのですから。その総体的力は、これからも和の文化を非正統・傍流に落とし込もうとするはずです。ポジショニングの転換は、だから思ったよりずっと困難なことかもしれない。
反「洋」キャンペーンなど考えられない、という意見もあります。しかし、もし事態が危機的であるなら、そうした手法をも視野に入れる必要があるのかもしれません。生物の多様性を守るために、外来種の参入を法的に規制する、といったことが我が国でも既に実施されている。固有の文化に対してそのような行為は行き過ぎなのでしょうか? ブラックバスを駆除するように、マクドナルドを市場から排除する、というような・・・・。

おっと、論がまた過激になりそうなので、ちょっと頭を冷やすことにします。
和の文化のポジショニングが、なぜこうも惨めな領域に落とし込められたのか。ちょっと別の視点について書いてみた。どうですか?

ま、今回はこんなところで。
敬具