→目次
第二章:和の競争戦略
→第九話「洋と和のポジション」
→第十話「維新の罪」
→第十一話「弱さと柔らかさと」
→第十二話「非多様性市場の憂鬱」
→第十三話「多様化のパラダイム」
また少し間があいてしまいました。けれどまだまだ議論はつづきます。ちょっとペースをもとに戻さねばならないですがね。(本論は将来の書籍化を考えているのですが、こんなペースではいつになることやら・・・)
さて、今回の書簡はこうぢ君から。近代マーケティングによって衰退した日本の文化を、その近代マーケティングの戦略を駆使して再活性する。その道筋について、刺激的な論がつづいています。
読者の異論反論・質問疑問、遠慮なくコメント欄にお寄せください。お待ちしてますよ。
日本文化について考えてみる。第十四話
トール殿
拝啓
確かにそうですね。今はまさに「物語」が重要な気がします。体系的な「和」のリポジショニング。孤立したコンテンツの「和」ではなく、さまざまな関係を有するコンテキストとしての「和」。そもそも「和」というのは孤立したものを意味する言葉ではないのですから、この考え方はまさしく「文字通り」の思想ですな。中国語で「你和我」といえば、「あなたと私」という意味になる。「和」を孤立させずに、できる限り体系的・連続的な固まりとして提示させてそのポジションを確保すること。ハッピーでポジティブな「洋」のストーリーに対置できるような「和」の物語を紡ぐ必要があるということでしょうか。
そうした問題意識で現在の和文化を眺めてみると、そこに共通の課題があり、同様の閉塞感が見えてきます。なぜ、日本の文化の再定位が思ったように進まないのか。なぜ、和のコンテンツが強い引力を持てないのか。
今、多くの日本文化関与者が、できる限り多くの生活者をその領域に引き入れようとさまざまな活動を展開しています。歌舞伎鑑賞教室だとか、陶芸体験会だとか、狂言のワークショップだとか、伝統工芸実演販売会だとか・・・。でも、厳しい状況なんですよね。そうした活動に何度足を運んでも、そこから和文化の再定位が見えてくることはほとんどない。なぜなのか。理由はさまざまに考えられるのでしょうが、そこに「物語」のないことも一因だと思います。孤立したひとつのコンテンツを提示して、その魅力をどんなに熱心に伝えても、受け手がそのコンテンツにその後も関与しつづけるような状態をイメージできないのです。かつて「洋」の文化が、ほとんどすべての日本人をその領域に引き込んだような状況とはほど遠い。例えば、中学生や高校生を歌舞伎鑑賞教室に参加させ、出演者による楽しい解説と実演、舞台裏の見学や囃子の体験、歌舞伎役者との交流・・・などなどを実施する。それらはもちろん、多くの参加者たちにとって思い出に残る貴重で有意義なひとときとなるでしょう。役者や裏方も含めた、関係者の努力にも頭が下がります。少しでも多くの新しいファンをつくっていこうという彼らの思いはよくわかる。けれど、この企画をきっかけにその後も引き続き歌舞伎を観ようと考える参加者がどれほどいるのか。実情は、かなり寂しい状況であろうことは容易に予測できる。中学生や高校生にいきなり「歌舞伎だけ」を提示しても、それが彼らの生活の中にどう着地するのか、さっぱりわからないのですから。
見事な漆塗りの器を見せられても、太棹三味線の深き音色を耳にしても、奇妙な絵柄の日本刀の波紋に驚いても・・・。で、それって私の生活とどんな関係があるの? という生活者の疑問は当然のことでしょう。必要なのは、コンテンツではなくてコンテキストじゃないか。体系的・連続的なプレゼンテーション。「和=and」で結ばれたさまざまな要素を継続的な体験として提示出来なければ、活性化の努力もそれに見合う効果は得られないのでしょうね。
近頃の日本の住居、特に都市部の住居には和室がほとんどなくなっていますよね。貴殿もご指摘の通り、LDKの素敵な住まいが主流。和塾の塾生も自宅に和室のない人が多い。新築のマンションなども最近は和室を組み込まない間取りの方が人気だったり。ワンルーム・マンションが和室なんてことはまずあり得ない。さまざまな事情でそうなっているのでしょうが、この傾向(日本市場からの和室の減少傾向)は、戦後〜経済成長期を通して現在までつづいている。
これ、一義的には我が国の住居空間における洋間と和室の比率の問題なのですが、ことはそう単純なことではありません。日本の家の和室がどんどん減少するというのは、間取りが変わるということだけではないのです。和室が減少することによって、直接的には、畳や襖や障子の需要が減少し、座卓や座椅子や座布団の必要性もなくなる。もちろんそれでもかなり多くの和文化が衰退することになるのですが、影響はそれだけにとどまらない。和室があれば、床の間などもあるわけで、そこに飾る掛け軸や花入れも欲しくなる。和室で食事をするなら、食器はやはり日本の器を使いたくなりますよね。違い棚には、日本人形とかこけしとか文箱などを置きたい人もいるでしょう。照明器具もできれば和紙を使ったような和風のものが良い。客が来ればティーカップに入れた紅茶ではなく、日本のお茶を出したい。ちょっと凝り性な人なら、客を招いて茶事に興じるとか。お正月には、長い間触れてもいなかった百人一首を出してみるとか。和室でくつろいでいると俳句をひねりたくなったり、書道をはじめてみたり。三味線を習ってみようか、などという妙なことが頭をよぎったり・・・。
つまり、和室の減少というのは、和の生活という物語の断絶でもあるのです。体系的・連続的な和の要素が集合体としてまとめて断ち切られている。これを集合体としてまとめて再起させるというのは、いささか厄介なことですが、やれない話しではないでしょう。当方にも大小さまざまなアイデアがあるのですが、紙数も尽きてきたので、それはまた次の機会に。少々蛇足ですが、和室に関して考えをひとつ。
和室が減少することによって、集合体としての和の生活が断ちきられている、というのはわかります。けれど、そうだからといって、現在の生活者が自ら進んで、まれにやってくる客人の寝室用にしかならない和室を、新居に組み入れるというのは考えにくい。なので、当方以前から国政関係者に出会うと次のようなアイデアをぶつけています。「和室減税の実施」もしくは「和室補助金制度の実施」。我が国の和室比率を上げるために、国家がこれを後押ししなさい、ということなのです。家を建てる時、和室を一定比率以上組み込めば減税になる。あるいは、和室比率の高い住居の購入には補助金が出る、など。もちろん、国による助成は、たんに日本の住居建築の和室比率だけの問題ではありませんよ。もうおわかりにように、こうした施策の結果、和室が増加すれば、和の生活関連の需要は飛躍的に拡大し、国内産業の活性化に寄与できる。どうですか?このアイデアの欠点は、それが生活者の自発的行動ではないところですが、それでも尚、意味あることだと思うのですがね・・・。
前信にて貴殿に軽く一蹴された「反洋キャンペーン」というのも、実はこうした国家的施策のアイデアのひとつでして。生活者の自発的行為だけでは解決の困難な課題に関しては、法的整備も含めた国家的施策も稼働させるべきではないか、と思うのです。既に国家的レベルで実施されている「外来生物の禁輸施策」などがそれにあたるもの。もっとも、それらは、この連載の趣旨である市場論=マーケティング論とは距離があるので、これくらいにしておきますが。今回はこんなところで。
敬具