古意ニ擬スルヲ以テ善シト為シ
古跡ニ似ルヲ以テ巧ト為サズ
これは、『遍照発揮性霊集』にある南山(弘法)大師の言葉。細川護煕氏の作陶への姿勢でもあります。
奇跡的な梅雨の晴れ間に、細川護煕氏の湯河原の山居「不東庵」を訪ねました。和塾による「最高峰の和文化体験」も、遂にここまでやって来た。ご一緒できたのは、まさに選ばれた十数名だけの、貴重でまたとない文化体験であります。
細川さんの暮らすこの地は、もともと氏の母方の祖父である近衛文麿が保養のために求めたところ。お祖父さま亡き後は、お祖母さまが80代後半で亡くなるまで、小さな菜園いじりを楽しみながら、ひとりきりで暮らしていました。細川さんも学生の頃よく遊びに訪れていて、いずれはここに住みたいと、その頃から願っていたそうです。
1998年に政界を退いた細川さんは、さっそく住まいをここに移し、「不東庵」という庵号を定め、今に至るまで生活の基盤をここに置かれています。
茅棟(ぼうとう)野人の居
門前車馬疎(まれ)なり
林は幽(しず)かにして偏(ひと)えに鳥を聚(あつ)め
谿(たに)濶(ひろ)くして本より魚を蔵す
山果児を携えて摘み
皐田(こうでん)婦(つま)と共に鋤(す)く
家中何の有るところぞ
唯(ただ)一牀(いっしょう)の書あるのみ
これは細川さんが好きな寒山詞ですが、不東庵はまさにそのような山居。海にも山にも近く、庭にはご自慢の枝垂れ桜の老木や山桜、藪椿、紅白の梅、木犀などの樹木が植わっています。もちろん、湯河原ですから、家のすぐ上に湯元があり、いつもこんこんと湯が沸き出ています。
細川さんの暮らす母屋は、約30坪ほどの平屋の家屋。お祖父さま・お祖母さまが使われていたそのままの小さな建物です。居間の軒先には、お祖母さまご自慢の雲南紅梅(迎春花)の蔓棚があって、その居間の床には、白隠の書が懸けられていました。手を伸ばせば必要なものになんでも手が届くこの家のサイズを、細川さんはとても気に入っている、とのこと。
ちなみに、庵号の由来となった「不東」は、細川さんが薬師寺の高田好胤師から教わった言葉。三蔵法師玄奘が天竺に仏法修行に出発するにあたり、仏法を極めることができなかったら生きて再び東方にある母国の土を踏まない、とする彼の決意を表したもの。それ以来この言葉は、何ごとをするにも不退転の覚悟をもってすることの同義語として使われているといいます。
和塾による不東庵訪問は、まずその迎春花の蔓棚の前に集まった参加者への、細川さんの歓迎のお話しから始まりました。庭の隅の菜園を狙う山猿とのあくなき争闘?のお話しなど、ここでしか聴けない楽しいお話しをうかがった後、一行は本宅の裏につくられた工房へと移動。工房の内外に置かれた作品を手に取りながら、不東庵での作陶のお話しや、個々の作品の解説などを拝聴しました。工房の隣には、電気、灯油、炭の三種の窯が据えられた窯場もあり、そこでも氏による楽しい作陶話しがつづきます。特に、楽茶碗の焼成については、実演つきの解説まで。まことに贅沢なひとときでありました。
さて不東庵のもうひとつの見どころは、山裾の斜面に建てられた草庵の茶室「一夜亭」です。九本の椋の杭で支えられた三畳ほどのこの茶室は、とんがり帽子のような屋根をいただく、小人か妖精の隠れ家のような建物。内部は畳ではなく茣蓙が敷き詰められ、壁面にただ鈎を打っただけの床の間も床柱もない壁床。ぐるりを囲う壁面は、柱を見せない漆喰の塗り込めで、角はすべて曲面の構成。母屋と工房を見おろす側の壁面には大きな窓が切られていて、天窓からの光も合わせて、ともかくこの茶室、とても明るい。
形式張らず風雅を楽しむのが茶の湯、というのが細川さんの考えで、一夜亭はまさにその思いを形にした無茶人の茶室。人柄同様、温かく飾らない、けれどとても豊かな時間が流れる本当に素敵な茶室なのです。
もちろん、和塾のゲストも順に一夜亭での茶席を楽しみました。御抹茶をいただく茶碗は、もちろんすべて細川さんの作品。開け放たれた窓から、梅雨の晴れ間の光と山風が茶室いっぱいに注がれて、これまた贅沢な和文化体験でありました。
茶席の後は、それぞれがそれぞれの思いで、お気に入りの細川護煕作品を手に入れて(今回限り、参加者だけが特別に購入できる機会をいただいたのです)、細川さんと共に湯河原の名店「山翠楼」へ。謹製の会席をいただきながら、細川家歴代の秘話などをたっぷりと拝聴して、湯河原での素敵な時間もお開きとなったのでありました。
ちなみに、その日の茶室の掛け物は、仙厓さんでした。
まさに「最高峰の和文化体験」をご提供いただいた細川護煕氏に、この場を借りて、重ねての感謝を記します。ありがとうございました。
※参考:細川護煕著「不東庵日常」
護熙さんと世話人Tです。