連載

vol.07 能楽囃子小鼓方人間国宝・大倉源次郎(3)

◆文化の国――

源次郎先生が最初に小鼓の手ほどきを受けたのは、お祖父さまから。とても厳しい師匠だったそうです。家でも正座を崩すことのない人。

「だらっとしているのを見たことがないですね。テレビでプロレス中継を見るときでさえ、ブラウン管の中の力道山を正座して応援していましたからね。目に焼き付いています。あらゆることに対して厳しい人でした。けれど、声を荒げて怒ることはなかった。何かを注意すべきときは、マッチをすって、その炎を僕の鼻先で揺らめかせる。子どもの頃、正座をしてマッチ棒の先の炎を見つめることが何度かありました。炎を見ながら考える。何が間違っていたのか、何が悪かったのか。マッチの炎が、考える時を与えてくれていたのですね。能の舞台は、観る人が自分の見方をつくっていくものです。それは、自分の価値観を広げ深めて絞り込んでゆく作業。近頃のテレビドラマやハリウッド映画のように、単一方向の見方を示し、観る人を一つの価値観に同調させるものとは違います。そうしたものに慣らされている現代人にこの面白さをわかってほしい。自分で考え、見いだすこと。マッチ棒の先を見つめて、その炎の揺らめきに何を観るかということですよね」

若き源次郎先生のお稽古の思い出をもう一つ。道成寺を披く前の父上との稽古です。場所は夙川の浜。
「父が『いくぞ!』といって、僕が車を運転して行きました。十九歳の頃です。それで、海に向かって父と一緒に声を出す稽古。近くで夜の浜を楽しんでいたカップルが慌てて逃げ出してゆく。なんともシュールな世界でした。けれどこの稽古は、海に向かわなければ意味がない。道成寺という曲の声を出すときに、どこまでその声を伸ばすのかを考えるとわかります。スケール感の問題です。稽古場のようなスケールでは狭すぎる。能楽堂でもまだ狭い。小さなスケールで稽古をすると、そのスケールでできあがってしまう。だから、海を相手に声を出し、鼓を打つのです。お客さまがご覧になる能舞台は、わずか三間四方の小さな空間です。けれど、上手な役者の一歩の運びに無限の距離を感じ、修練を積んだ演者の掛ける声は遙かな時空を貫いてゆく。本物の舞台人によるスケール感を、たくさんの人に受け取っていただきたいですね」

自分で考えること。自分で見つけること。自分で感じること。厳しい稽古を越えてきた能の表現が私たちに突きつけることがたくさんあるようです。

「人間の肉体は口と鼻から入るもので、人間の精神は目と耳から入るものでその多くはつくられている。だから私たちは、プリミィティブな感覚のことをもっと大切に考えなければならないのだ」と源次郎先生は考えます。合成品を食べ、バーチャルなものばかりを目にし、電子音ばかりを耳にする人間はいったいどうなってしまうのか。
「能舞台は機械的なもの、電気的なものを一切使わずに成立している。人間の力だけでつくられている。だから、能という舞台芸術を見聞きすることによって、人間のプリミティブな感覚が研ぎ澄まされ、人間本来の精神が形づくられるはずなのです」

芸術や文化の力は侮れないものです。人間の精神を形成する力を持っているのですから。ところが、昨今、文化は経済の余剰に貶められています。源次郎先生は語ります。

「今の日本では、経済の余力で文化を楽しみ、余剰の金銭でそれを維持するような思考法が蔓延しています。僕はそれを逆に考えたい。文化をしっかり確立させれば、結果として経済が回るのだと。それは妙な考えですか。いや、そうじゃない。江戸期に幕府がとった政策はまさにそのようなものだったのです。能楽を公認の芸能とすることにより、その装束のために織物が織られ、絹糸が流通し、木工芸と鉄工芸の技術によって鼓がつくられ、木材の流通と宮大工の技が舞台を整える。豊かな芸術文化の存在が、世界でも有数の経済規模を持つ国をつくっていたのです。彦根の井伊家や熊本の細川家や薩摩の島津家のお殿さまが、競うように大量の能装束やお道具をつくっていたといいます。我が国には、そういう時代があったのですよね。文化が経済を先導していた。そこはまさに文化の国だったのです。余分なお金があるから芸術文化を楽しむ、などとは違う思考法なのですよ」

 

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03 漆芸蒔絵人間国宝・室瀬和美(3)
04 漆芸蒔絵人間国宝・室瀬和美(4)
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