今から30年ほど前、京都で一世を風靡した板前割烹と言えば祇園の「千花(ちはな)」だった。主人の永田基男さんは季節の魚介、野菜を縦横に使いこなすばかりでなく、りんごを釜に見立てて中になますを盛ったり、赤貝の酢の物にキウイを下ろして添えたりと、当時としては斬新な料理を次々に生み出していった天才料理人だった。私は「千花」の料理に惚れ込み、ついには1年12か月毎月東京から「千花」へ通い詰めたほどである。
この「千花」で目覚めたのが、「お造り」だった。ある年の春、幸運にも1年越しの明石の鯛で「お造り」つまり刺身の極致を味わうことが出来た。身は透き通って、色合いはわずかにべっこう色した鯛の一切れは、なにもつけずにいただくと、香り、甘みが伝わり、塩分が欲しいとなれば、箸の先に醤油をわずかにつけて、口中の鯛に添えると旨味が拡がり始まる。最上の鯛、包丁の冴え、どれをとっても単なる魚の切り身でなく、技ありの料理であることを納得し、「切れ味」という「味」を初めて実感できたのだった。
以来、「鯛のお造り」を幾度もいただいてきたが、「千花」と同じ感動を覚えたのは、徳島の「青柳」小山裕久さんの「鯛のお造り」と京都「浜作」森川裕之さんの「鯛のお造り」のみである。
「浜作」は、現在、新町通蛸薬師上ルにあるが、移転前、昨年まで店は八坂神社近くにあった。あたりには名店がひしめいているが、中でも「浜作」は板前割烹の最古参格である。「板前割烹」と言うだけに、ほとんどすべての料理をカウンター内の目の前で作り上げる。
白衣に蝶タイを締めた恰幅の良いご主人森川裕之さんが、一匹の鯛から見事なお造りを作りあげる。カウンター席は14席。たとえ満席であろうと、決して作り置きはしない。その包丁さばきの鮮やかなこと!一度命を落とした鯛が、その包丁の冴えによって、客の口の中で再び命を吹き返し、成仏する。
私は旧店舗の「浜作」で、二度も極上の「鯛のお造り」に出会った。まさしく「人生の幸運」と言うしかない僥倖だった。ご主人森川さんも、これだけは当日にならなければ、どんな鯛に巡り合うかわからず、「運」でしかないとおっしゃる。
カウンター内の調理器具、道具類、食器がすべて選び抜かれ、使いこなされたものばかりであること。長年研ぎ出して短くなった包丁がある一方、ステンレスやプラスチックのボックスなど一切見当たらない。「板前割烹」の大切な美意識と言っていい。
余談だが、「ふぐ刺し」も一味違っている。
ふぐの刺身と言えば、身を寝かせてから極薄く包丁で引き、大皿に並べてゆくのが常道のように言われている。しかし、寝かせずに極薄く切りつけるのは、身が硬いために高度な技術を必要とするが、その刺身を噛んだ時の旨味の程は、寝かせた身の比ではない。そのことを教えてくださったのが、森川さんである。極薄いふぐの刺身を口に含んでじっくりと味わう旨味は、淡味ながら深みがあって、真冬の魚の王様の品格を漂わせている。これぞ「目から鱗が落ちる」ふぐ刺しである。
「お造り」ばかりか、「お椀」も当代一と言ってよい。
北海道尾札別の希少で超高価な真昆布と削り立てのまぐろ節、本枯れの鰹節を惜しげもなく使い、一番出汁を引く。その高貴な香りと深遠な味わいは他に類を見ない。その一番出汁をカウンター席に居並ぶお客様に、御猪口で味見をしていただくのが「浜作」ならではの食事前のセレモニーになっている。
また、お客の目の前で、当たり鉢を使って和え物を作る。作り置きしたものと違って、みるみる香りが立ち昇り、カウンター内から青い薫りが漂ってくる。これぞ、板前割烹ならではの妙味と言えようか。
さらに、どこでも脇役でしかない「油物」も、「若狭かれい」を丸ごと揚げた一皿などは、小骨一本残らず食べてしまうほど見事な出来栄えである。
お仕舞いに出てくる、出来立ての、たまごに出汁をたっぷり、ぎりぎりまで含ませた「出汁巻」が名物である。
料理をさりげなく、北大路魯山人や河井寛次郎の器に盛るのも「浜作」ならではなかろうか。
調理の最中でも、客からお尋ねが飛んでくると、いやな顔をせず、いや、待ってましたとばかりに、妙案の答えが返ってくる。このキャッチボールが、料理を一段と美味しくしているのは言うまでもない。
「浜作」ののれんをくぐった著名人は、川端康成、谷崎潤一郎はじめ数知れず、歌舞伎役者では二代目中村吉右衛門がご贔屓だった。世界の著名人では、チャップリンはじめ、グレース・ケリー、マーロンブランドなど、これまた数多く、「浜作」の名物料理を味わっている。
ご主人はオペラから歌舞伎、落語まで造詣が深く、サロンにはグランドピアノがおかれ、ときどきミニコンサートが開かれるほど。
[連載一覧]山本益博・我が人生の十皿・00 はじめに
・01 東京「たつみ亭」荒木保秀の「上かつ」
・02「みかわ是山居」早乙女哲哉のはしらのかき揚げ
・03 東麻布「野田岩」の筏の蒲焼
・04 銀座「すきやばし次郎」のこはだの握り
・05「吉い」吉井智恵一 鱧のお椀
・06 東京「コートドール」斉須政雄の「しそのスープ」
・07 気仙沼「福よし」村上健一のさんまと吉次の塩焼き
・08 柏「竹やぶ」阿部孝雄の そばがき
・09 三ノ輪「トイ・ボックス」山上貴典の醤油ラーメン
・10 京都「浜作」森川裕之の「鯛のお造り
・11 別皿 東京「HIDEMISUGINO」杉野英実の「ランブロワジー」