◆積み重ねる美
曖昧模糊な日本の芸能も、稽古となると少し様相が変わります。世阿弥が風姿花伝で語るように『稽古は強かれ』であります。繰り返し繰り返し続けられる稽古は、果てることがない。京舞もしかり、日本の芸道におけるこの反復しつづける稽古のありさまは一体何を目指しているのでしょうか?
八千代先生は語ります。「考えなくなるまでお稽古するということが大切です。だから、時間がかかります。部分的なことに気持ちが向いてしまうとか、身体的なことが気になるようではイケナイ。ある思惑を持って、ここで畳みかけてやろうとか、そういうことを思うのも良くない。そんなことを思ったり考えたりしなくなるまで稽古は続きます」「舞が作りごとにならないように、ただただ普通に、そこにあるがままでいるために。舞が自分の身体と精神の内に入りきるまでお稽古しなさい、ということだと思います」。
西平直の『稽古の思想』にも、次のような一説があります。『稽古は「わざ」を身につける場である。それは単なる肉体の訓練ではない。心が問われる。心を込め、心を磨き、邪心を離れ、無心になることが求められる。』
八千代先生のお師匠さんは、祖母である井上愛子さん、つまり先代四世の井上八千代さんです。その師が九十歳をこえた頃、八千代先生が感じた師の凄みは「どこにも上手を感じさせないところ」だといいます。「九十代になってからの祖母は、物事にとらわれない自由さを見せてくれました。舞台の上でなんで人はこんなに自由になれるんやろう、確かにここに居ながらどこへでも飛んでいかはりそうで、素晴らしいなぁ、と思いました」「心が何ものにもとらわれてない。その心で舞えるという凄さ。私はそこに、他にない美しいものを見せてもらいました」。その道の先人たちの知恵の集積を、強い稽古で徹底的に身につければ、むしろ人は自由になれる。西平によれば、『稽古は技芸を身につけることであり、そしてそこから離れることである。技芸から離れるためには、技芸を習得しておかねばならない』のですから。
京舞井上流の身体技法と言えば「御居処(おいど)を下ろす」が基本。膝を曲げるだけでなく、おなかに力を入れてしっかり腰を落として舞う。身体の芯に力を込めることができれば、肉体はかえって伸びやかに解放されるといいます。だから、京舞は、内に込めたエネルギーをたっぷりと持ちながら、どこか身軽で初々しい。「大地に根の生えたような力強さと、生まれたてのみずみずしさ」です。そして、それは、強い稽古をつづけた後にある心の自由と、とても似ています。「私たちの芸能は地道な稽古をあきれるほど積み重ねるしか他に道がない。これはもうはっきりしております。繰り返し繰り返し曲を浚って自分を曲に馴染ませる。そしてあるところまできたら、今度はそれを忘れていく。作りごとであることを忘れていく。そうして自然になってゆく」ということなのですね。
時間をかけて積み重ねること。これもまた、今を暮らす私たち日本人が忘れてしまいがちなことかもしれません。今になって、世界中の人びとが気付き始めている持続可能な社会への視点を、日本の人びとはずっと昔から持っていたのです。工業化と経済的成長、効率を追求し使い捨てを是とする消費生活を豊かさと定義してきた二十世紀の価値観が根底から問い直されつつある今、八千代先生と京舞が受け継ぐ価値観や世界観にこそ、新時代の豊かさを見ることができるのではないでしょうか。八千代先生は言います。「時間をかけて、時には無駄だとも思える時間をかけてものをつくってゆく。そういうことを私たちは求めているのだろうし、そうしてできたものの価値を私たちがちゃんと認識しなければいけない。世の中の方みんなにそういうことを思い出していただけるようにと思います」
八千代先生は今日もまた、祇園からほど近い新門前のお稽古場で、強い稽古をつづけています。稽古の先にある心の自由を得るために、たくさんのお弟子さんたちがその元に集っています。「私たちへの評価というものは、次にどう伝えるかということにあります。次のことを見ていただかなければ、伝統芸能というものの価値はない。お弟子さんたちが、続いてやってくれるかどうかで私の評価が決まるということかなと思っております」と、八千代先生は語ります。この世に永遠にあり続けるものはないけれど、技芸と心意気はいつまでも受け継ぐことができるのですから。
「無駄なものなく、華美にならず、丁寧につくられたものがたくさんある」京都の地で、「上手を目指さずに・志高く・上等な京都を見ていただくこと」を心に、御居処を下ろした摺り足のお稽古が、ひのきの床に磨きをかけているのです。
<完>
[連載一覧]田中康嗣(和塾 理事長)・日本の宝 日本を語る
・01 漆芸蒔絵人間国宝・室瀬和美(1)
・02 漆芸蒔絵人間国宝・室瀬和美(2)
・03 漆芸蒔絵人間国宝・室瀬和美(3)
・04 漆芸蒔絵人間国宝・室瀬和美(4)
・05 能楽囃子小鼓方人間国宝・大倉源次郎(1)
・06 能楽囃子小鼓方人間国宝・大倉源次郎(2)
・07 能楽囃子小鼓方人間国宝・大倉源次郎(3)
・08 能楽囃子小鼓方人間国宝・大倉源次郎(4)
・09 京舞人間国宝・井上八千代(1)
・10 京舞人間国宝・井上八千代(2)
・11 京舞人間国宝・井上八千代(3)
・12 京舞人間国宝・井上八千代(4)