uraku和塾 第二回『平清盛』ゲスト講師:辻村寿三郎

平安末期の混乱とした時代、天皇家の混乱と摂関家のしがらみの中、武家の身分で初めて太政大臣にまで昇りつめ、貴族のものであった政治から、新しく武家による政治をひらいた平清盛。その後に続く、武力を中心とした力による政権の奪取という政治世界の礎を築いた清盛ですが、平家物語などを通してみると、力にものを言わせて驕り高ぶり、非道な悪人として描かれているのが常です。
しかし、その実像はどのような人物だったのか。また、頂点を極めるに至ったその背景とは。

今回は、平清盛をライフワークとしている人形作家の辻村寿三郎氏をゲスト講師としてお迎えし、
清盛を取り巻く複雑な人間模様を紐解きながら、従来のイメージとはかけ離れた平清盛象を浮かび上がらせた講座となりました。贅沢にも、寿三郎氏作の人形をご覧頂きながら、ご本人による解説付きの特別講座です。

平清盛においては、まずその出生が謎につつまれていることでも有名です。
名目上の父は、平忠盛、母は祇園女御です。祇園女御は、白河上皇のお目にかなうことで、一庶民から宮廷での力を握る人物になりました。しかし、実際は祇園女御は子供を産める体ではなく、生んだのは祇園女御の妹であったと寿三郎氏はおっしゃいます。そして父は、白河上皇。体の弱かった妹のかわりに育てたのが祇園女御であり、平忠盛だったといいます。
祇園女御は次第に宮中でも力を持っていきました。その権力を固守するために、白河の子供である清盛にすがる必要があり、自らの存在を脅かす可能性がある清盛の実母である妹を殺したと寿三郎氏はおっしゃいます。祇園の鐘の音を聞くたびに、みずから犯した罪の念に胸が締め付けられていた祇園女御は、美しく可愛らしい女の子から、険しい妖艶な雰囲気をもつ女性に変わっていきました。寿三郎氏の人形作品集も参考にしながら、その変化も観ていきます。

寿三郎氏曰く、人形はものを語らないため、表情、ポーズ、来ている服装の色や文様、など全てで語らなくてはならず、指の形ひとつとっても全てに意味があるとのことです。
そのためか、作品は全て説得力と迫力をもっています。

厳島神社の水の流れを繊細に汲んだ造形や美しい平家納経からも見て取れる通り、清盛は非常に繊細な人物であったと寿三郎氏は言います。実の父と母、名目上の父と母、複雑な人間関係の中、宗教に対しても熱心に傾倒していきました。


※ 西行 辻村寿三郎作

清盛を取り巻く人物の中で、大事な役割を演じるのが、崇徳天皇です。
もともと同い年でよく一緒に遊んでいたと考えられる西行、崇徳、清盛。

崇徳も名目上は鳥羽天皇と璋子の子とされていますが、実際は白河上皇と璋子の子供であり、そのことで父の鳥羽天皇から避けられていたとされています。鳥羽帝を父とも、璋子を母とも言えず、寂しい宮廷生活を送っているなか、清盛や西行と親交を深めていたといいます。しかし、鳥羽帝が新しく得子を妃とし、近衞帝が誕生すると、崇徳は形だけの上皇となり、宮廷より遠ざけられることとなります。さらには、近衞帝の目の病気が、崇徳の呪いであるとの風説が広がり、追いつめられた崇徳は近衞帝没後の政権争いの中、後白河と対立し、敗北。配流されることとなります。俗にいう保元の乱です。

この保元の乱と後の平治の乱を通して、力をつけ権力を握っていったのはかつて一緒に遊んでいた清盛でした。
同じような出自にありながら方や天皇、方や武士であった二人。清盛は、かつて天皇であったものの凋落を一方に、自らの勢力を拡大していくことを、どのように感じていたのでしょうか。

寂しい生涯を送った崇徳帝に関しては、後世までその呪いの風説がつづくこととなります。
この時代、呪いというものは実世界に大きく影響をあたえるものでした。
寿三郎氏曰く、ありもしない呪いの風説を裏で広めていたのは、藤原信西であったといます。
信西は、保元の乱の際、平安初期におこった薬子の変以来、実施されていなかった死刑を復活させ、崇徳側についた源為義らを処分。さらし首にしました。乱に乗じて、大きな力を持つことになった信西は、その3年後の平治の乱で、自らがさらし首になることになります。

平安末期におこった皇位継承を巡る争い、関白家と武士の対立。親子兄弟を巡って、争われた混乱の時期に、
回りを取り巻く様々な人間模様や思惑の中、清盛は時代の主役としてその地位を築いていくことになりました。清盛の栄華の背景にある、人々の犠牲や悲しみを背負って新しい時代を進んでいく清盛の壮大なお話でした。

uraku和塾 第2回では、対談のあと、ティータイムをもうけ、参加者のみなさまと寿三郎氏、案内人の葛西聖司氏とのトークタイムを設置いたしました。気になったこと、よくわからなかったこと等、自由に直接質疑頂くまたとない機会になりました。