日本文化について考えてみる。第九話
→第一話「往復書簡の趣旨」
→第二話「閉じられた衰退市場」
→第三話「厄介なスパイラル」
→第四話「中心的価値と新機軸」
→第五話「守ることは眠らせることじゃない」
→第六話「東次郎の挑戦」
→第七話「動的な定義」
→第八話「共通理解と許容範囲」
第八話、ちょっと怖かったです。青筋立てての激論、どうなることかと思ったら、今回から議論のお題が動いたようです。いよいよ始まるポジショニングと競争戦略。もちろん、このテーマを探りながら、いずれまたブランド価値論に回帰しよう、というたくらみもあるようで・・。
では、その新テーマ。まずはトール君からの論点提示です。
こうぢ殿
ありゃあ、また正月早々、いい具合の鼻息で。世間様もまた殺気立って来そうな気配ですし、我々はしばしゆるゆる行きましょうや。
マーケティングの科学としての側面がもてはやされるのはビジネスにおけるリスクヘッジの文脈があればこそで、厳密さへの欲求は怖さの裏返しだったりする。で、おっしゃるとおり、ブランド価値定義なんてのはアートの領域ですよね。ブランドの力は、人を動かす哲学や文学、美学の力そのもの。誰かの強い想いで築かれ、時の流れに揺さぶられ、捨てられたり拾われたり、多くの人の手で磨かれてゆく。描き出されると言うより削り出されるものですな。
本質価値の定義を厳密なガイドラインととるか、柔軟な外部構造を支える真髄の見極めと置くか。これ同じようでいて微妙な視差があり、視差があってこその奥行きで、この議論にはせめぎ合ってやがて真実が見えてきそうな含蓄がありますから、いずれまた戻ってくるものとして、どうもこの中心的価値論の据わりが悪いのは、「日本文化」をひとっくくりにしているせいもありそうですな。舞踊や禅や、刀剣や春画までひっくるめて何が心髄かと問うても、それ自体にはぶれが大きすぎるきらいがある。いったん強引に、視点を引いてみましょうか。日本文化の外、外的な競争環境下にどんなプレイヤーがいて、どんな相対関係が描かれるのか。
日本文化衰退の最大の鍵は、むしろそのポジショニングと競争対抗戦略にあるのではないか、という論題ですな。一部の閉じた担い手だけが孤立的に盛り上がっている状態のそら恐ろしさも、つまりは価値の磨き手たる一般人の参加が激減してしまった結果であると。
日本文化は単独で衰退したのではなく、人々の興味関心を他に奪われてしまったのだと。
だって、こうやって筋道立ての青筋立ての、熱く日本文化の価値論を交わす酔狂なおやじなんざ、悲しいほどのマイノリティなわけですわ。そもそも「和」とは何ぞや。
近代において、「和」という概念が浮き彫りにされたのは、圧倒的な異分子である「洋」の文化が生活の中に大量に持ち込まれたからに他なりませんよね。欧米文化が「洋」と呼ばれたから、「和」という対の概念が必要になった。「着物」は「洋服」が流行ったから「和服」と呼ばれるようになった。
洋からの引き算で差異が浮かび上がった片割れの認識が、そもそもの「和」のアイデンティティだったのだと思います。ここで注目すべきは、我ら日本民族の特徴である「新しモノ好き」という性ですね。
僕が今勤めているオフィスは、国籍で言うと10ばかりの出身者が寄り集まっていて、日本人の特質についてよく話題になるのですが、やはりこの国の流行や文化の移り変わりの速さにはみんな驚きますよ。
新しいものごとがすごい勢いで浸透・普及することもそうだけれど、人々が実にいさぎよく、あるいは節操なく、いろんなものを捨て去って行くのがすごい。
顕著なのはもちろん商品市場ですけどね。飲料なんかはこれだけの成熟市場で新商品が毎年1000アイテム以上登場し、ほぼ同数が消えるということを話すと、初めて日本に来たマーケッターはみな絶句しますよね。織田信長とか坂本龍馬なんかを見ても思うのですが、新しモノ好きというのはおそらく日本人が古くから持つ性向なのでしょう。それに加えて、黒船来航と進駐軍という2度の民族的トラウマ体験を経て、欧米化は日本が未来に向かうための不文律になってしまった。
勤勉な日本人は熱心にライフスタイルの欧米化を学び、産業や生活のレベルでも、自国で作り出す工業製品のクオリティの低さを恥じて、製品に横文字のブランド名をつけるのが流行り、やがて常識になった。そしてそれらは「新しい」という、日本人の嗜好の琴線に触れ、人々は卑屈さにとどまることなく、焦燥感に追われるだけでもなく、欧米人のライフスタイルに無邪気に憧れながら、その新しさをあっけらかんと楽しむようになった。そう。欧米文化の新しさには、同時に強い「楽しさ」が感じられたのだと思います。
それはおそらく、日本人にとって非常に新鮮な「かっこよさ」だったに違いありません。
科学に裏打ちされた合理性、オープンな享楽性、スケールの大きさ、平等な人間関係・・・それらは異質なものではあったけれど「かっこいい」と受け止められた。つまり、「洋」の文化はそのポジショニングによって、「かっこいい」というイメージ領域を占有することになったのだと思います。
このイメージは今に至ってもまだ残存していますね。日本の車はドイツと並んで世界一のステイタスを持っているのに、国内でもまだほとんどが横文字の名前ですし。
まあSMAPから嵐の時代になれば、文脈の大きな転換が起きるかもしれませんが(笑)。さてその陰で「和」という相対概念は、宿命的にネガティブに評価されるところから始まったのだとは言えないでしょうか?
日本人にとって、そもそも「和」の概念は「過去に置いて行くべきダサイもの」というポジショニングから、共通認識化が始まった。
とすれば、これは大問題だったはずです。未来に向けてのベネフィットも、新しさやかっこよさという前向きなエネルギー源となるイメージも持たないのだとすれば、生活の中でのポジショニングを戦略的に開拓しなければ、存在意義がない。未来は絶望です。いや、実際、その通りなのかもしれませんね。そのまま放置した結果が今日の姿、という例を我々はたくさん見ているような気がします。
この視点で何か、打開策は見出せるでしょうかね?長くなりましたので、ここらでいったんバトンを返してみることにします。
※次回はこうぢ君の返信。1週間以内に返すがルールとなってます。お楽しみに。
※ご意見ご感想お寄せください。
→第九回